しみそうな鳥さん

台詞の出自紹介コーナー💎
 映画内で子供が言う「しみそうなとりさん」という台詞は、宮城まり子さんが紹介しているある男の子の言葉でずっと印象に残っているものがあり、そこから使いました。加藤典洋さんの「言語表現法講義」で加藤さんが引用してる部分です。

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もうずいぶん前になる。九月二六日の夕方だった。七歳の男の子が、

ぼく かえる みつけた
・・・・
しみそう。
くさのところへ いきました。

 と書いた。
 それを先生が、

  ・・・・
ぼくはきょう
    ・・・・・・
かけるをみつけました
・・・・・・・
死にそうでした くさのところへいきました(傍点 まり子)

 と、なおした。

 私には、日にちと情景が浮かぶ。九月二六日、夕方、夏の終わり、ご飯をたべる直前の、少し寂しい、夕焼けのピンクが松林にかくれて、チャコールグレーにかわるようなとき、夏のあいだ元気に騒いで鳴いていた蛙が弱って、ピョンピョンと跳んでいった。それを、手と足に障害を持つ感受性の強い男の子が、やっと跳んでいく蛙を見て、
・・・・
しみそうと感じた。「しみそう」は「死にそう」の幼児語であり、知恵の遅れであり、言語障害ではあるけれも、私はその表現が好き。もちろん言葉としては間違っている、弱々しく、哀れに、蛙が跳んでいくのを見たら、「死ぬ」ということではなく、「しみそう」というほうが的確なような感じがした。
その場合、その子がいくつになったら、「これは、しみそうではなく、死にそうなのよ。」っていったらいいのだろうか。小学校では、「夏の終わりなので、蛙が弱っているでしょう。」と、具体的に書かなければならないのだろう、と思いながら、私は、迷う。
私には、言葉の少なさが、とても詩的に感じられたから。

 いつか子どもは、「しみそう」ではなく、「死にそう」と書くのだということがわからなければならないだろうけど、「しみそう」ではなく、「死にそう」だということがわかったときに、あの子は絵がかけなくなるような気がする。

宮城まり子「私は教育経験三十年」より

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 言葉をモノとして使う幼児によくハッとさせられます。私たちの脳内の感情や感覚はそれぞれで色や形や手触りが違うのにどうしてもそれは「死にそうな鳥」「切ない」「かわいそう」という言語になってしまう。
 この男の子がみた蛙は死にそうな蛙となんか違う。さまざまなものを想起させる。しみそう、って響きなだけで。彼のさみしさみたいなものが透けて見える。それもさみしさではないのかもしれないけど。私はこの文を書いた男の子のことをずっと思い出しています。

眠る虫 公式サイト

2020年9月5日よりポレポレ東中野にて公開!